文化史練習問題 その1

 

1.以下の文章を読んで後の問に答えなさい。

 

 日本古来の伝統文化に「和歌」があります。和歌というと、みなさんは「短歌」の「五・七・五・七・七」という( 1 )を思い浮かべるかもしれませんが、実は他にも様々な種類の歌があったのです。

例えば、@日本最古の歌集とされる( 2 )には、( 3 )が歌った「貧窮問答歌」が収められていますが、この歌は「五・七・五・七…」のリズムを繰り返しつなげて、最後に「五・七・七」で終わる「長歌」と呼ばれる種類の歌です。その他にも「五・七・七・五・七・七」と繰り返す「旋頭歌」や、「仏足石歌」といった歌も( 2 )には収められています。

しかし、全4500首、宮中の天皇・貴族だけでなく東国の民衆や防人の歌まで収めたこの歌集に比べると、天皇の命令によって編集された後の和歌集、たとえばA平安時代の古今和歌集B鎌倉時代の( 4 )などは歌の種類や読み手の多様さという点で、物足りない感じがします。

宮中で栄えた貴族文化が、再び民衆の文化と接するようになるのは、C室町時代に入ってからのことです。寺社の祭礼でおどられていた「猿楽」が、豊作を願う農民たちにおどられていた「田楽」と融合することで( 5 )や「狂言」となり、観阿弥・世阿弥父子によって大成されました。

また( 6 )の乱の影響で、都を捨ててD地方へ僧侶や公家が移り住んだことで、宮中の短歌や、そこから派生したE「連歌」なども各地へ広まることになります。後のF江戸時代になると、「連歌」から「俳諧」が生まれ( 7 )によって大成されますし、様々な規則にとらわれずに自由に歌い上げる「狂歌」や( 8 )なども庶民の間で流行することになります。また、( 9 )が始めたとされる「歌舞伎」踊りも、民衆由来の文化といってよいでしょう。

それぞれの時代の文化の担い手は、その時代を中心となって支えた人々です。文化史の側から歴史をながめてみることで、また新しい発見が生まれるのではないでしょうか。

 

問1 空欄( 1 )〜( 9 )に適切な語句を記入しなさい。ただし( 1 )には短歌のことを表す5文字の漢字が入ります。

 

問2 下線部@に関して

 (1)この歌集が編まれた時代に活躍した文化人として、不適切な人物を以下から選びなさい。

    ア 太安万侶  イ 大伴家持  ウ 鞍作鳥  エ 稗田阿礼

 (2)この歌集が編まれた時代に建てられた寺院として不適切なものを以下から選びなさい。

    ア 興福寺  イ 飛鳥寺  ウ 東大寺  エ 唐招提寺

 (3)この歌集が編まれた時代の文化の説明として、適切なものを以下から選びなさい。

    ア 桓武天皇の遺品を納めた東大寺正倉院は、校倉造という独特の建築様式を取っている。

    イ 刑部親王が中心となって編集された日本書紀は、年代ごとに出来事をまとめた歴史書である。

    ウ 東大寺の大仏が完成した時に行われた開眼供養は、行基や鑑真も参加した。

    エ 正倉院の宝物には、唐だけでなく、シルク・ロードを通じてペルシアの文化の影響も見られる。

 

問3 下線部Aに関して

 (1)この和歌集の編者が書いた日記を答えなさい。

 (2)平安時代に建てられた寺院として不適切なものを以下から選びなさい。

    ア 身延山久遠寺  イ 比叡山延暦寺  ウ 中尊寺金色堂  エ 高野山金剛峰寺

 (3)この時代に活躍した以下の人物を、時代の古い順に並べ替えなさい。

    ア 平清盛  イ 坂上田村麻呂  ウ 平将門  エ 藤原頼通  オ 菅原道真  カ 白河上皇

 

問4 下線部Bに関して

 (1)空欄( 4 )の和歌集の編集を命じた上皇が、1221年に起こした反乱を答えなさい。

 (2)この時代の文学作品として不適切なものを以下から選びなさい。

    ア 太平記  イ 徒然草  ウ 方丈記  エ 金塊和歌集

 (3)この時代に建てられた寺院として不適切なものを以下から選びなさい。

    ア 建長寺  イ 平等院鳳凰堂  ウ 永平寺  エ 円覚寺舎利殿

 (4)この時代の文化の説明として不適切なものを以下から選びなさい。

    ア 源平の争乱で焼け落ちた東大寺が再建され、南大門という新しい門に金剛力士像が置かれた。

イ 竹崎季長は、恩賞を得る目的で、元寇での活躍ぶりを記録した「蒙古襲来絵詞」を描かせた。

ウ 武士は武家造りと呼ばれる屋敷に住み、犬追物や笠がけなどで武芸をみがいた。

エ 唐から帰国した栄西は、禅宗(臨済宗)とお茶を日本に伝えた。

 

問5 下線部Cに関して

 (1)現代の和風建築のもととなった、この時代に生み出された建築様式は何か。

 (2)室町時代の文化作品として不適切なものを以下から選びなさい

    ア 「鳥獣戯画」  イ 『風姿花伝書』  ウ おとぎ草子  エ 水墨画

 (3)「この頃都にはやるもの 夜討ち強盗にせ綸旨」という落首と関係の深い出来事を以下から選びなさい。

    ア 建武の新政  イ 南北朝統一  ウ 正長の土一揆  エ 応仁の乱

 (4)室町時代の出来事の説明として適切なものを以下から選びなさい。

    ア 足利尊氏に京都を追われた後醍醐天皇は、高野山に南朝を開いた。

    イ 足利義満の行った日明貿易は、日本が明に対してみつぎ物を贈るという形式で行われた。

    ウ 山城の国一揆では守護大名が追放され、その後100年近く農民たちの自治が行われた。

    エ 加賀の一向一揆では、借金に苦しむ場借たちが幕府に対して徳政令を出すことを要求した。

 

問6 下線部Dに関して、日明貿易の根拠地としても栄え、「西の小京都」と呼ばれた都市を答えなさい。

 

問7 下線部Eに関して、連歌を大成した人物を以下から選びなさい。

   ア 西行  イ 一休  ウ 宗祇  エ 良寛

 

問8 下線部Fに関して

 (1)江戸時代に活躍した浮世絵師として不適切なものを以下から選びなさい。

    ア 菱川師宣  イ 東洲斎写楽  ウ 狩野永徳  エ 喜田川歌麿

 (2)江戸時代の文学作品と作者の組み合わせとして適切なものを以下から選びなさい。

    ア おらが春 − 小林一茶      イ 世間胸算用 − 近松門左衛門 

ウ 東海道中膝栗毛 − 滝沢馬琴   エ 南総里見八犬伝 − 井原西鶴

 (3)江戸時代の学問についての説明として不適切なものを以下からすべて選びなさい。

    ア 間宮林蔵は日本全国を測量して、正確な日本地図を作成した。

    イ 蘭学者の平賀源内はエレキテルの発明や石綿の研究を行った。

    ウ 『解体新書』を翻訳した杉田玄白は、『蘭学事始』という学問書も著した。

    エ 青木昆陽は飢きんに備え、じゃがいもの栽培を全国に広めた。

    オ 国学者の本居宣長は万葉集を研究し、『万葉考』を著した。

 (4)江戸時代の主な出来事と、関係ある人物の組み合わせとして不適切なものを以下から選びなさい。

    ア 株仲間の奨励 − 田沼意次    イ 島原天草一揆 − 徳川家光

    ウ 日米和親条約 − 井伊直弼    エ 儒学の奨励  − 徳川綱吉

 

問9 以下の短歌・狂歌を時代の古い順に並べ替えなさい。

 ア なれや知る 都は野辺の 夕ひばり あがるを見ても 落つる涙は

 イ この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば

 ウ 泰平の 眠りを覚ます 上喜撰 たった三杯で 夜も眠れず

 エ 地図の上 朝鮮国に くろぐろと 墨を塗りつヽ 秋風を聴く

 オ からころも すそにとりつき 泣く子らを おきてぞ来ぬ や母なしにして

 カ 白河の 清きに魚の すみかねて もとのにごりの 田沼恋しき

 キ 東風吹かば においおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ

 

2.次の文章を読んで後の問に答えなさい

 

日本の歴史に大きな影響を与えた学問や宗教というとみなさんは何を思い浮かべるでしょうか。例えば江戸時代では、儒教(儒学)が江戸幕府が政治を行ううえで大きな役割を果たしました。主君と臣下の礼節をわきまえたり、親を子が敬うといった儒教の説く人間関係が、江戸幕府の政治制度にふさわしいものだったためと言われます。その反面、神の前での人間の平等を説くキリスト教の教えは危険であるとして迫害されたのは皆さんも知っていらっしゃるとおりです。また様々な新しいアイデアを取り入れた( 1 )が蘭学を奨励したのは、キリスト教の教えと直接関係のない部分に限ってのことでした。人々がどのような学問と出会うのかについて、その時代の支配者たちは敏感にならざるを得ないのかもしれません。

明治時代に入ってからも様々な学問が西洋から日本に紹介されましたが、明治新政府の土台をゆるがしかねないような学問については、江戸時代までと同様に政府の取締りの対象となったことはいうまでもありません。産業の近代化が進んでくるにつれ世の中の貧富の差が激しくなり、平等な社会の建設を説く( 2 )主義の考え方が広まるようになると、政府は厳しい監視の目を向けるようになります。昭和時代の始まる直前にさだめられた( 3 )法は、( 2 )主義の考え方を支持する人々を取り締まるための法律でしたが、後には政府に批判的な考え方をする人々全般を取り締まるためにも適用されるようになりました。

このように、政治的な指導者たちが様々な学問の教えに対して敏感になり、ある時には取り締まり、また別の時には利用したりしていたのは、実はそう珍しいことではありません。この文章の冒頭の問いかけに対して「仏教」という言葉を思い浮かべた人がいるかもしれませんね。確かに日本の歴史と仏教との間には深いつながりがありそうです。

仏教が日本に伝わったのは儒教と同じ( 4 )世紀ごろといわれています。中国大陸から朝鮮半島を通じて伝わったこの新しい教えをめぐっては、国家として受け入れるべきか拒否するべきかについての激しい対立がありました。この対立に勝利した蘇我馬子が、仏教の祈りの力によって日本国を治めようという政治を( 5 )天皇の摂政だった聖徳太子とともに進めたことで、日本に仏教が広まるきっかけができたのです。当時の大和朝廷が仏教をどれだけ大切に扱っていたのかは、聖徳太子が定めた( 6 )に「三法をあつく敬え」と書かれていたことからも想像がつきますし、後に中国式の税の制度が取り入れられたときにも僧は税の負担を免除されていたほどでした。

 このように朝廷と仏教とが深くむすびついた結果、8世紀後半になると政治に対する仏教の影響力が強まり、それを嫌った( 7 )天皇が都を平城京から長岡京へ、そしてさらに( 8 )へと移すことになります。と同時に、仏教界の中でも、政治と深く結びついた仏教のあり方に疑問を持つ人があらわれ、人里から遠く離れた山中で修行することを求める新しい宗派が中国から紹介されたのです。

そしてこの後は、仏教界と朝廷とが密接に結びついて政治を行うというよりは、その当時の政治的指導者たちに対して、仏教界あるいは仏教を信じる人々が何らかの要求を行っていく、政治的指導者たちはその要求にどのように対応するかが問われるという事例が増えていきます。例えば院政を開始した( 9 )上皇を悩ませた僧兵たち。あるいは室町時代に入り各地で起きるようになった一向一揆などです。

特に一向一揆は、日本の一地域を完全に支配するほどの力を持っていましたが、逆にそれが仏教に対する政治的指導者たちの警戒心を強めさせたといえるかもしれません。織田信長は自分に敵対するものは、たとえ相手が仏教の僧であろうと容赦なく攻めほろぼしましたし、江戸時代に入ってからは、寺請け制度と呼ばれる制度のもとで寺院を監督するために( 10 )奉行という特別な役職まで設置されました。これは、キリスト教の布教を防止するために民衆一人ひとりを寺院に所属させ、寺社奉行が各寺院を管理するという、仏教を通じて民衆を支配するための仕組みとでもいうべきものでした。

 学問や宗教が一人ひとりの行動に大きな影響を与え、社会的に大きな影響力をおよぼしていくのだとすれば、日本国憲法に定められている「信教の自由」、「思想信条・良心の自由」、「学問の自由」といった権利の持つ意味について考えてみることは、とても大切なことなのかもしれません。

 

問1 空欄( 1 )〜( 10 )に適切な語句を記入しなさい

 

 

 

 

 

問2 江戸時代の儒教の状況について誤って説明したものを以下から選びなさい。

 ア 松平定信は朱子学以外の学問を幕府の学問所で教えることを禁止した

 イ 徳川綱吉は湯島に孔子を祭る聖堂を建てた

 ウ 吉田松陰は松下村塾で儒学に基づく教育を行った。

エ 儒学者の新井白石は正徳の治と呼ばれる改革政治を進めた

 

問3 明治時代に入ってから紹介された様々な学問や制度について

 @次の人物と関係の深い事柄を後の語群から選びなさい

  ア 前島密  イ 野口英世  ウ 福沢諭吉  エ 北里柴三郎

語群: 『西洋事情』、破傷風の研究、郵便制度の整備、黄熱病の研究

 A次の外国人と関係の深い事柄を後の語群から選びなさい

  ア クラーク  イ モース  ウ フェノロサ  エ ナウマン

語群: 岡倉天心、野尻湖遺跡、大森貝塚、札幌農学校

 

問4 空欄( 2 )主義について

 @この考え方に基づいて1917年にロシア革命を指導した人物は誰ですか

 Aロシア革命後に@の人物が建国を指導したこの国家は、第二次世界大戦後にアメリカ合衆国と激しく対立しました。直接戦火を交えることなく続いたこの対立のことを何と呼びますか。

 

問5 蘇我馬子や聖徳太子のころに立てられた寺院としてふさわしくないものを以下から選びなさい

 ア 飛鳥寺  イ 四天王寺  ウ 中尊寺金色堂  エ 法隆寺

 

問6 大和朝廷が取り入れた中国式の税制について正しく説明しているものを以下から選びなさい

 ア 都で60日間働く衛師と呼ばれる税が課されていた。

イ 6歳以上の男子には口分田が貸し与えられたが、女子には貸し与えられず納税は免除された。

ウ 都で10日間働くか特産物を都に納めるかどちらかを選ぶ、庸と呼ばれる税が課されていた。

エ 稲の収穫高の3%を納める租と呼ばれる税は地方の国府に納められた

 

問7 政治と深く結びついた仏教のあり方とありますが、8世紀頃の日本の仏教の状況について誤って説明しているものを以下から選びなさい。

 ア 天皇にあつく信用されていた道鏡は、天皇の位を狙ったために失脚した。

イ 全国各地に国分寺や国分尼寺と呼ばれる寺院が建立された。

ウ 唐から帰国した鑑真は東大寺の大仏建設に大きな影響を与えた

エ 行基は民衆向けに仏教の布教やため池を掘るなどの活動を行っていた。

 

問8 空欄( 7 )の天皇のころに中国から紹介された新しい仏教の宗派とは何ですか。2つ答えなさい

 

問9 一向一揆について

@一向一揆が支配していた一地域とはどこのことですか。現在の都道府県名で答えなさい。

 A一向宗と呼ばれる宗派と同様に、念仏を唱える宗派を広めた人物としてふさわしいものを以下か選びなさい。

  ア 日蓮  イ 栄西  ウ 源信  エ 道元

 

問10 織田信長が活躍したころの文化の説明として適切なものを以下から選びなさい

 ア イギリス人やオランダ人などがカステラや天ぷらなどの南蛮文化を伝えた

イ 出雲阿国が人形浄瑠璃を大成した。

ウ 大名の建てた巨大な城の天井やふすまに豪華な絵が描かれた。

エ 徳川家康に仕えた千利休がわび茶を大成させた。

 

 

 

(解答欄)

1.

問1 1           2            3            4 

 

5           6            7            8

 

 

問2(1)    (2)    (3)    問3(1)           (2)    (3)

 

問4(1)           (2)    (3)    (4)

 

問5(1)           (2)    (3)    (4)      問6      

 

問7      問8(1)    (2)    (3)      (4)      問9

 

 

2.

問1 1           2            3            4 

 

5           6            7            8

 

9           10

 

問2     問3@ア          イ          ウ          エ    

 

問3Aア          イ          ウ          エ     

 

問4@           A          問5     問6     問7     

 

問8            問9@         A     問10     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(解答)

 

1.問1 1 三十一文字(みそひともじ) 2 万葉集 3 山上憶良 4 新古今和歌集 5 能 

6 応仁 7 松尾芭蕉 8 川柳 9 出雲阿国 

 

問2(1)ウ(2)イ(3)ウ 

 

問3(1)土佐日記(2)ア(3)イ→オ→ウ→エ→カ→ア  問4(1)承久の乱(2)ア(3)イ(4)エ

 

問5(1)書院造(2)ア(3)ア(4)イ 問6 山口 問7 ウ  

 

問8(1)ウ(2)ア(3)ア、エ、オ(4)ウ 問9 オ→キ→イ→ア→カ→ウ→エ

 

2.

問1 1 徳川吉宗  2 社会  3 治安維持  4 6  5 推古  6 憲法十七条   桓武

 

   8 平安  9 白河  10 寺社

 

問2 ウ  

 

問3@ア 郵便制度の整備  イ 黄熱病の研究  ウ 『西洋事情』  エ 破傷風の研究

 

  Aア 札幌農学校  イ 大森貝塚  ウ 岡倉天心  エ 野尻湖遺跡  問4@レーニン A冷戦

 

問5 ウ  問6 エ  問7 イ  問8 真言宗、天台宗  問9@石川県 Aウ  問10 ウ